「は、はじめまして。」
正直そのとき思った。この女、嫌いだ。すごく。何が俺にそうさせたのかはわからないが俺はとにかくどこからともなく沸いた憎悪に眉間に皺をよせた。なあ、俺はやっぱりお前が嫌いだったんだよ。
江戸にきてからずっと屯所で働いていた女中のおばちゃんがやめるということを聞いたのはちょうど6月の半ばだった。風が湿度を孕んで生暖かくなりはじめていたのをよく覚えている。夏が来る、そう思って金魚鉢をひとつ買ってきた。金魚なんていないのに。
「お清ばあがですかィ?」
「ああ、もうそろそろ体力的にも辛いものがあるらしくて、それに、大所帯になっちまったからなあ。」
「なんでェ。いつも元気そうじゃないですかィ。お清ばあは。」
「まあそう言ってもやっぱり人間、年相応なんだよ。」
そう言って仕方のないことだ、と少し困ったように笑う近藤さんはひどく大人に見えた。年相応、そう言われて俺はなんだか自分がとても子供だと言い聞かせられているようでなんとなく気に食わなかった。そういう意味じゃないだろうに。
「お清ばあ。」
「あら、何、どうしたの総語くん。」
洗濯物の入った薄茶の大きな篭をふたつ足元に置いて、背の小さなお清ばあは少し背伸びをして物干し竿に一枚ずつ洗濯物をかけていた。つま先だけで立っているから少し不安定そうに揺れている。
「やめるって本当ですかィ。」
「ああ、・・近藤さんに聞いたの?」
「本当なんですかィ。」
「・・ええ、やっぱりねえ、最近足腰も痛くて。年ねえ。こんなに元気でいるつもりなのに。」
「それだけでやめるのかィ。」
「うん、それだけじゃなくてね、息子のところが一緒に住まないかって言ってくれてるのよ。京の方に住んでるんだけどね。」
「息子、」
「今までそういう話が無かったわけじゃないのよ。だけど最近になって、ふとね、少しだけ息子が恋しくて。おかしいわねえ、こんなおばさんが。歳をとるってこういうことかしら、ねえ。」
そう言って薄く優しい目で困ったように笑ったお清ばあのしわしわの水仕事で荒れた手も、なで型の丸い肩も、何でだかすごく小さく見えた。はじめて、お清ばあが小さく見えた。小さな、小さな年寄りに見えた。
「お清ばあ。」
「ん?」
「明日の朝飯、玉子焼き食いてェ。」
「はいはい。了解しました。」
「ちゃんと甘いやつ作れよ。」
「わかってますって。」
お清ばあは俺達より息子を選んだんだ。なぜか俺はそういう風に心が痛かった。お清ばあになんでこんなにこだわるんだ。なあ、別に、お清ばあは俺達を捨てた、わけじゃないのに。でも、俺は、お清ばあに捨てられた気がした。それがたまらなく悔しくて悔しくて腹が立った。歳をとるっていうのは、そういうことじゃないだろう。なあ。俺は、わかってる。別に、誰かが悪いんじゃない。息子と住む、年老いたお清ばあが悪いわけじゃない。お清ばあを連れて行く息子が悪いわけじゃない。近藤さんが悪いわけじゃない。俺がとても汚いからだ。ひどく、醜い。